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【小説】ある図書館での問答

図書館の窓際の席で、私は三時間も同じページを見つめていた。

哲学の入門書を開いているのに、一向に理解が進まない。いや、正確に言えば、文字は追えている。文章の意味も分かる。でも、何も分かっていない気がする。こういう時、人は決まって言う。自分は頭が悪いのだと。

隣の席に座っていた老人が、ふと声をかけてきた。

「何を読んでいるのかね」

見ると、白髪の穏やかそうな人だった。私は本の表紙を見せた。

「哲学の本です。でも、全然理解できなくて」

老人は少し微笑んだ。

「理解できないというのは、どういうことだろうね」

私は戸惑った。どういうことも何も、分からないということは分からないということだ。でも、老人は続けた。

「君は今、何が分からないのか、分かっているかね」

変な質問だと思った。分からないから困っているのに、何が分からないかが分かるわけがない。そう言おうとして、私は口を閉じた。

本当にそうだろうか。

私が分からないと言っているのは、実は何だろう。著者の主張が理解できないのか。使われている用語の意味が掴めないのか。それとも、なぜこの話題が重要なのかが分からないのか。

「あっ」

思わず声が出た。

私は「分からない」という言葉で、実は様々な異なる状態をひとまとめにしていた。漠然とした不明瞭さの中に、自分を放置していたのだ。

「良い問いは、答えの半分を含んでいる」

老人は言った。

「君が『何が分からないのか』を明確にできれば、もう答えに近づいている。多くの人は、問いを立てることなく、ただ答えを求めようとする。でも本当は、正確な問いを見つけることこそが、最も難しく、最も価値のある作業なんだよ」

私はもう一度、本を開いた。今度は違う目で読んだ。

この段落で著者は何を問題にしているのか。なぜこの問いが重要なのか。この概念は何を説明しようとしているのか。

一つ一つを問いに変えていくと、霧が晴れるように文章が見えてきた。理解できない部分も、「なぜ理解できないのか」を問うことで、自分に足りない前提知識が何かが分かってきた。

老人は立ち上がり、本を脇に抱えた。

「知恵というのはね、答えを集めることじゃない。良い問いを立てられるようになることだ。ソクラテスが『無知の知』と言ったのも、自分が何を知らないかを知っている、つまり正確な問いを持っているということだったのかもしれない」

そう言って老人は去っていった。

私は図書館を出るとき、不思議な充実感を感じていた。本の内容をすべて理解したわけではない。でも、何かもっと大切なことを学んだ気がした。

問うこと。それも、漠然とではなく、鋭く正確に問うこと。

これは哲学書を読むときだけの話ではないだろう。人生のあらゆる場面で、私たちは漠然とした不安や疑問を抱える。そのとき、「何が問題なのか」を明確にする力があれば、世界の見え方が変わる。

翌日、私は同じ図書館に行った。もう一度、あの老人に礼を言いたかった。でも、彼の姿はなかった。

それでもいい。彼が教えてくれたのは、答えではなく、問い方だったのだから。

私はノートを開き、書き始めた。

「今日、私が最も知りたいことは何か」

その問いから、一日が始まる。

【執筆後記】『あ』の音と表現について

今回の小説で使った「あっ」という感嘆は、気づきの瞬間を表現するために選びました。この音には特別な力があります。それは「開く」という動作と深く結びついているからです。口を開けて最初に出る音、それが「あ」です。赤ちゃんが最初に発する音も、驚いたときに思わず漏れる音も「あ」です。

言語学的に見れば、「あ」は最も制約の少ない母音です。舌の位置も唇の形も、最も自然な状態で発せられます。つまり、「あ」は意識と無意識の境界で生まれる音なのです。

物語の中で主人公が「あっ」と声を出す場面は、まさに認識が開かれる瞬間でした。それまで閉じていた思考の扉が、問いによって開かれる。その開放感を、「あ」という音で表現したかったのです。哲学者ハイデガーは「開示性」という概念を語りましたが、「あ」はまさに世界が開示される瞬間の音なのかもしれません。

一つの感嘆詞が持つ力を、私は今回の執筆を通じて改めて感じました。言葉は意味だけでなく、音そのものに真実を宿すのです。

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