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【小説】あなたへの最後の手紙

今日で引っ越しだ。この街を離れる。新しい土地で、新しい仕事を始める。

段ボール箱に荷物を詰めながら、本棚の奥から古いノートが出てきた。大学時代に使っていた、水色の表紙のノート。パラパラとめくると、走り書きのメモや授業のノートに混じって、一枚の便箋が挟まっていた。

便箋には、丁寧な文字で手紙が書かれていた。差出人の名前はない。でも筆跡を見た瞬間に、誰からのものか分かった。あなただ。

手紙の日付は十五年前。大学を卒業する直前、あなたは何も言わずに街を出ていった。理由も告げずに。私は何日も電話をかけたけれど、繋がらなかった。メールも返ってこなかった。

そして、この手紙があったことすら、忘れていた。

便箋を広げて読み始める。文字が少しぼやけて見えるのは、紙が古いからだけではないかもしれない。

手紙には、あなたの想いが綴られていた。私に伝えられなかったこと、伝えたかったこと、そして伝えることを諦めたこと。実家の事情で急に帰らなければならなくなったこと。でも私にそれを話せば、私があなたのために何かを犠牲にしてしまうと思ったこと。だから黙って去ることを選んだこと。

手紙の最後にはこう書かれていた。「いつか、あなたが幸せになったと知ることができたら、それだけで十分です」

私は床に座り込んだ。十五年間、あなたを恨んでいた。突然いなくなって、何の説明もなくて、私を置き去りにして。でも真実は違った。あなたは私を想って、自分一人で痛みを引き受けていたのだ。

窓の外を見る。夕日が街を赤く染めている。この街で過ごした二十年間。様々な出会いがあり、別れがあり、喜びがあり、痛みがあった。でも今思えば、あなたとの別れが、すべての始まりだったような気がする。

あなたがいなくなってから、私は必死に生きた。寂しさを埋めるように、仕事に打ち込んだ。人と会い、笑い、前を向こうとした。そうやって築いてきたものが、今の私を作っている。

もしあなたが残っていたら、私はどうなっていただろう。あなたに頼り、甘え、自分の足で立つことを学ばなかったかもしれない。

あぁ。そうなのか。

あなたの選択は、私を自由にするためだったのだ。あなた自身も痛みながら、それでも私の未来を優先してくれた。それは愛の一つの形だったのだ。残酷なほど優しい、愛の形。

私は便箋を持って、机に向かった。ペンを取り、新しい便箋に文字を書き始める。

「あなたへ。今日、あなたの手紙を見つけました。十五年遅れて、ようやく届きました」

書きながら、涙が落ちた。便箋に小さなシミができた。でも構わず書き続けた。

「あなたの想いを、今、理解しました。ありがとう。そして、ごめんなさい。私はあなたを誤解していました」

「おかげで、私は強くなりました。一人で歩けるようになりました。これから新しい場所で、新しい人生を始めます」

「あなたの望み通り、私は幸せです。だから、あなたも幸せでいてください。それがあなたへの、私からの最後のお願いです」

手紙を書き終えて、封筒に入れた。宛先は書けない。あなたが今どこにいるのか知らないから。でも、この手紙はきっと届く。風に乗って、心に乗って、時間を超えて。

窓を開けた。夕暮れの風が部屋に入ってくる。私は手紙を持って、静かに目を閉じた。

ありがとう、あなた。さようなら、あなた。そして、どこかで幸せに。

明日、私は新しい街へ向かう。過去を抱きしめながら、未来へ歩いていく。あなたがくれた痛みと優しさを、全部持って。

目次

【執筆後記】『あ』の音と表現について

今回選んだのは「あぁ」という、息を長く吐き出すような感嘆です。この表記を選んだ理由は、理解が深まっていく過程の時間性を表現したかったからです。「あ」という瞬間的な気づきとは異なり、「あぁ」は理解が徐々に浸透していく様子を音の長さで表します。

フランスの哲学者ベルクソンは、人間の意識における持続(デュレ)について論じました。私たちの理解は点ではなく、時間の流れの中で展開します。過去の記憶、現在の認識、未来への予感が重なり合って、一つの洞察を形成する。「あぁ」という長音は、まさにこの意識の持続を体現しています。

物語の主人公は、十五年前の手紙を読み、相手の真意を理解し、自分の人生を振り返り、すべてが繋がる瞬間を経験します。この複層的な理解のプロセスを、一つの「あぁ」に凝縮しました。単なる驚きではなく、納得と受容と感謝が混じり合った、成熟した気づきです。

言語表記の面白さは、同じ音でも書き方によって意味が変わることです。「あ」「ああ」「あぁ」「あー」。それぞれ微妙にニュアンスが異なります。私は「あぁ」という表記に、ある種の詩的な響きと、静かな感情の深まりを感じます。叫びではなく、囁きに近い。自分自身との対話のような。そんな質感を持つ音だと思います。

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