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【小説】空白に宿るもの

書けない日が続いている。

フリーのライターとして五年間やってきて、こんなことは初めてだ。締め切りはまだ先だけれど、パソコンの前に座っても、白い画面がただ私を見つめ返してくるだけ。カーソルが規則的に点滅している。まるで心臓の鼓動のように。

今朝も早起きして机に向かった。コーヒーを淹れ、窓を開けて新鮮な空気を入れ、いつもの儀式を済ませた。でも指は動かなかった。

何を書けばいいのか分からない。いや、違う。書くべきことは頭の中にある。でも、それを言葉にする回路が、どこかで途切れている感じがする。思考と言語の間に、深い谷ができてしまったような。

午後になって、気分転換に近所を散歩することにした。住宅街を抜けて、小さな公園へ向かう。平日の昼間だから、人はまばらだ。ベンチに腰を降ろして、ぼんやりと空を見上げた。

雲が流れている。ゆっくりと形を変えながら、風に乗って移動していく。一つの雲が、鳥のように見えた。次の瞬間には馬に見えた。そしてまた別の何かになった。

そのとき、ふと思った。言葉も雲のようなものかもしれない。固定された形を持っているように見えて、実は常に流動している。同じ言葉でも、使う人によって、使う文脈によって、受け取る側によって、無限に意味が変わる。

私が書けないのは、言葉を固定しようとしすぎているからかもしれない。完璧な表現を求めて、一つ一つの単語を慎重に選びすぎている。でも言葉というのは、もっと自由で、もっと曖昧で、もっと生き物に近いものなのではないか。

ベンチの横に、子どもが置き忘れたらしいボールが転がっていた。赤いゴムボール。私はそれを拾い上げた。手のひらで弾ませてみる。ポン、ポン、ポン。単純なリズム。

あっ、そうか。

その瞬間、何かが繋がった。言葉は完璧である必要はない。リズムがあればいい。呼吸があればいい。読む人の心に、何かしらの波紋を広げることができれば、それでいいのだ。

私は立ち上がって、急いで家に戻った。パソコンの前に座り、今度は迷わず文字を打ち始めた。完璧な言葉を探すのではなく、心の中に浮かんだ言葉を、そのまま画面に流し込んでいった。

するとどうだろう。言葉が次々と溢れてくる。川の水が岩を避けながら流れるように、文章が自然に形を作っていく。間違っているかもしれない。洗練されていないかもしれない。でも、生きている。私の呼吸と一緒に、言葉が息をしている。

夕方、一つの記事を書き上げた。読み返してみる。決して完璧ではない。でも、そこには確かに私がいた。私の迷いも、気づきも、すべてが文章の中に溶け込んでいた。

思えば、人生で最も大切なことは、いつも完璧ではないところにある。不完全だからこそ、余白がある。余白があるからこそ、そこに何かが入り込む余地がある。読む人の想像が、感情が、経験が。

書けない日々は、無駄ではなかった。白い画面を前に過ごした時間は、実は私に必要な沈黙だったのかもしれない。音楽に休符が必要なように、文章にも空白が必要だ。その空白の中で、次の言葉が生まれてくる。

夜、窓の外を見た。空には星が輝いている。星と星の間には、膨大な暗闇がある。でもその暗闇があるからこそ、星は輝いて見える。

私たちは光ばかりを追い求めるけれど、闇もまた大切なのだ。書けない時間も、沈黙も、空白も。それらすべてが、次の創造のための準備期間だ。

明日も書こう。完璧を目指すのではなく、ただ自分の中にある言葉を、素直に形にしていこう。それがきっと、本当に伝わる文章になる。

目次

【執筆後記】『あ』の音と表現について

「あっ」という促音便を含む感嘆を選んだのは、気づきの瞬間の瞬発性を表現したかったからです。促音(小さい「っ」)は日本語において時間の断絶を示します。音韻の流れが一瞬止まり、次の音へ跳躍する。この音響的な特徴が、まさに認識の転換点、つまり「気づき」という心理現象と驚くほど一致しています。

認知心理学では、洞察(インサイト)は突然訪れるとされています。アハ体験と呼ばれる、それまでバラバラだった情報が一瞬で統合される現象です。「あっ」という音は、この心理的プロセスを音声化したものだと私は考えます。母音「あ」の開放性に、促音の緊張と解放が加わることで、発見の瞬間特有の身体感覚が言語化されるのです。

この物語で描いたのは、創作における行き詰まりと突破です。書くことができないという閉塞状態から、ふとした瞬間に視点が転換し、言葉が流れ始める。その転換点に「あっ」を配置することで、読者にも同じ気づきの体験を共有してもらいたいと思いました。言葉は完璧である必要はない、という真理に到達する瞬間を、最もシンプルな音で表現したのです。

余談ですが、「あっ」の後に句点ではなく読点を置いたのも意図的です。気づきは終わりではなく、新しい思考の始まりだからです。

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