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【小説】あの日の約束

父が亡くなって一年が経った。

遺品整理をしようと思いながら、ずっと先延ばしにしていた。父の部屋に入ることが、どうしてもできなかった。ドアノブに手をかけるたびに、もう父はいないのだという現実が押し寄せてきて、息が詰まりそうになる。

でも今日、ようやく決心した。このままでは前に進めない。

父の部屋は、一年前のままだった。本棚には父が愛読していた歴史小説が並び、机の上には読みかけの新聞が置かれている。まるで父がちょっと席を外しているだけのような、そんな錯覚を覚える。

窓を開けて空気を入れ替えた。春の光が部屋に差し込む。埃が光の中で舞っている。

机の引き出しを開けると、古い写真がたくさん出てきた。私が子どもの頃の写真。運動会で走っている写真。入学式の写真。どれも父が撮ったものだ。父はいつもカメラを持ち歩いていた。

写真の裏には、父の字でメモが書かれていた。「初めて自転車に乗れた日」「小学校の卒業式」「高校受験の前日」。一枚一枚に、日付と短い言葉が添えられている。

私は床に座り込んで、写真を眺めた。こんなに大切に保管してくれていたのか。こんなに細かく記録してくれていたのか。

引き出しの奥に、一冊のノートがあった。表紙には「娘へ」と書かれている。手が震えた。ページを開く。

そこには、父から私への手紙が綴られていた。

「もし私がいなくなったら、この手紙を読んでほしい。まだ伝えていないことが、たくさんあるから」

父の字を追いながら、涙が溢れてきた。

手紙には、私が生まれた日のことが書かれていた。初めて抱いたときの重さ。初めて笑った瞬間の喜び。夜泣きで眠れない日々も、すべてが幸せだったこと。

そして、母を亡くしたときのことも書かれていた。私が五歳のとき、母は突然この世を去った。父は男手一つで私を育ててくれた。どれだけ大変だったか、子ども心にも分かっていた。

「あの日から、私は二人分の親になろうと決めた。でも、きっと足りないことばかりだったと思う。料理は下手だったし、髪を結ぶのも上手くできなかった。お母さんがいたら、もっと上手に育てられたのにと、何度も思った」

違う、と私は心の中で叫んだ。父は完璧だった。不器用かもしれないけれど、父なりに全力で私を愛してくれた。それは子どもの頃から分かっていた。

手紙は続く。

「中学生になったとき、あなたは反抗期になった。私に口もきいてくれなくなった。部屋に閉じこもって、話しかけても返事をしない日が続いた。あのとき、私は本当に悩んだ。どうしたらいいか分からなかった」

覚えている。あの頃の私は最悪だった。父の優しさを当たり前だと思って、感謝の言葉一つ言わなかった。それどころか、父を避けていた。父の愛情が重く感じられて、息苦しかった。

「でも、あなたの部屋の前を通るたびに、中から聞こえる音楽や、小さな物音に耳を澄ませていた。元気にしているか、ちゃんと食べているか、悩んでいることはないか。ドアをノックする勇気がなくて、ただ廊下に立って、あなたの気配を感じていた」

涙が止まらなくなった。知らなかった。父がそんな風に心配してくれていたなんて。

「高校を卒業して、あなたが家を出たとき、嬉しいような、寂しいような、複雑な気持ちだった。あなたが自分の道を歩き始めることは、親として誇らしかった。でも同時に、もう毎日あなたの顔を見ることができないのだと思うと、胸が痛んだ」

私は東京の大学に進学した。実家を離れ、一人暮らしを始めた。最初の数ヶ月は毎週のように父から電話がかかってきた。でも私は面倒くさがって、短い返事しかしなかった。そのうち父からの電話も減っていった。

「たまに電話をしても、あなたは忙しそうだった。それでいい、それでいいのだと自分に言い聞かせた。あなたには、あなたの人生がある。親は見守るだけでいい」

手紙の最後のページに、こう書かれていた。

「あなたへ。私は不器用な父親だったけれど、あなたを愛していた。一日たりとも、あなたのことを想わない日はなかった。これからも、どこにいても、あなたを見守っている。あなたが笑っていてくれるなら、それだけで私は幸せだ。ありがとう、私の娘でいてくれて。ありがとう、生まれてきてくれて」

ノートを抱きしめて、私は泣いた。声を出して泣いた。

あ…お父さん。

私は何も返せなかった。父の愛に、ちゃんと応えることができなかった。もっと優しい言葉をかければよかった。もっと一緒に時間を過ごせばよかった。後悔ばかりが押し寄せてくる。

窓の外で、桜が咲き始めていた。父が好きだった桜。毎年この季節になると、父は嬉しそうに桜を見上げていた。

私は立ち上がって、窓辺に立った。桜の花びらが風に舞っている。一枚、また一枚。儚くて、美しい。

そのとき、不思議なことに、父の声が聞こえた気がした。

「大丈夫だよ。あなたは十分頑張った。もう自分を責めなくていい」

幻聴かもしれない。でも、確かに父の優しい声だった。

私は桜に向かって、小さく呟いた。

「お父さん、ありがとう。私、ちゃんと生きるね。お父さんの娘として、恥ずかしくないように生きるから」

風が吹いて、花びらが一斉に舞い上がった。まるで父が返事をしてくれているような、そんな気がした。

この部屋は、このままにしておこう。父の本も、机も、全部。そして時々ここに来て、父と対話しよう。報告しよう。今日はこんなことがあったって。嬉しかったことも、悲しかったことも。

父はいなくなったけれど、父の愛は消えない。私の中に、ずっと生き続ける。それが分かっただけで、私は前を向ける。

春の光が、部屋を優しく照らしている。

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【執筆後記】『あ』の音と表現について

今回使った「あ…」は、言葉にならない感情が溢れる瞬間の音です。句点ではなく三点リーダーを選んだのは、この感情が完結せず、無限に続いていくことを示したかったからです。

喪失と向き合うとき、私たちはしばしば言葉を失います。言いたいことは山ほどあるのに、それを形にする言語が見つからない。「あ」という音は、そんな言語化以前の感情の噴出です。呼びかけであり、後悔であり、愛情であり、すべてが混ざり合った純粋な感情の発露なのです。

文化人類学者の中沢新一は、言語以前の世界について論じています。人間は言語を獲得することで思考を深めましたが、同時に言語では表現できない領域も生まれました。「あ」という音は、その境界線上に存在します。意味を持つ言葉になる直前の、生の感情そのものです。

この物語では、父から娘への一方通行だった愛が、娘の理解によって循環する瞬間を描きました。時間は戻せません。でも、理解は時間を超えます。今この瞬間に気づくことで、過去が新しい意味を持つ。「あ」という呼びかけは、時空を超えて父に届く祈りのような音なのです。

人は誰かを失って初めて、その人の愛の大きさに気づくことがあります。でもその気づきこそが、故人への最大の供養かもしれません。愛されていたことを知り、その愛を受け取り、生きていく。それが残された者の使命だと、私は信じています。

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