窓の外で雨が降っている。小雨ではなく、本格的な、地面を叩きつけるような雨だ。
こういう日は決まって、彼女のことを思い出す。十年前に別れた、最初で最後の恋人。名前を口にするのも今では躊躇われるけれど、心の中では今でも鮮明に覚えている。
出会ったのは大学の図書館だった。私が落とした本を拾ってくれたのが彼女だった。手渡してくれるとき、彼女は小さく笑って「面白そうな本ですね」と言った。それだけの会話だったのに、なぜか私はその日一日中、彼女の声が耳から離れなかった。
次に会ったのは、やはり雨の日だった。傘を持たずに図書館を出た私に、彼女が「よかったら」と自分の傘を差し出してくれた。相合傘で駅まで歩いた。彼女の肩が濡れないように、私は無意識に傘を彼女の方へ傾けていた。自分の左肩はびしょ濡れになったけれど、不思議と寒くなかった。
付き合い始めてから、雨の日が好きになった。彼女も雨が好きだと言っていた。「雨の音を聞いていると、世界が優しくなる気がする」と。確かにそうだった。雨の日は街の喧騒が和らぎ、二人だけの時間が流れるような錯覚があった。
彼女には独特の癖があった。何かに気づいたとき、必ず「あ?」と語尾を上げて言うのだ。疑問符がつくような、でも驚きも含まれているような、不思議なイントネーション。最初は少し変わっているなと思ったけれど、すぐにそれが愛おしくなった。
カフェで私が何か冗談を言うと、「あ? 本気で言ってるの?」と笑う。道で猫を見つけると、「あ? こんなところに」と立ち止まる。映画を観ていて意外な展開になると、「あ? そういうこと?」と私の顔を見る。その度に、私は彼女の表情を見るのが楽しかった。
でも、関係が終わったのも雨の日だった。就職が決まり、私は地方へ転勤することになった。遠距離は難しいと、二人とも分かっていた。駅のホームで最後に会ったとき、雨が降っていた。
彼女は泣かなかった。ただ、いつものように「あ?」と言った。でも今回は違った。その音に、言葉にならない複雑な感情が全部詰まっていた。諦めと、受け入れと、それでも残る想いと。
私は何も言えなかった。電車が来て、乗り込んで、窓から彼女を見た。彼女は手を振っていた。雨に濡れながら、最後まで手を振っていた。
十年が経った今、私は地元に戻ってきた。転職して、同じ街で暮らしている。でも彼女とは会っていない。会えていない。どこで何をしているのかも知らない。
雨の音を聞きながら、私は思う。もし街ですれ違ったら、彼女は何と言うだろう。やはり「あ?」とあの独特のイントネーションで驚くのだろうか。それとも、もう私のことなど覚えていないのだろうか。
窓に雨粒が当たる。一つ、また一つ。無数の雨粒が、それぞれの軌跡を描いて流れ落ちていく。人生もそういうものなのかもしれない。出会いと別れを繰り返しながら、それぞれの道を進んでいく。
でも、雨の日になると必ず思い出す。彼女の声を、彼女の笑顔を、あの「あ?」という音を。それは懐かしさというより、もっと深いところにある、名前のつけられない感情だ。失ったものへの未練ではなく、確かに存在した時間への、静かな感謝のようなもの。
コーヒーを一口飲む。冷めかけている。雨はまだ降り続けている。この雨が止んだら、私はまた日常に戻る。仕事に行き、人と会い、笑い、生きていく。
でも心のどこかに、あの雨の日の記憶は残り続ける。彼女の「あ?」という声と一緒に、永遠に。
【執筆後記】『あ』の音と表現について
本作では「あ?」という上昇調の疑問形を選択しました。これは単なる質問ではなく、驚きと確認が混在した、きわめて日本語的な発話です。言語学者の金田一春彦は、日本語の感動詞の豊かさについて指摘していますが、「あ」に疑問のイントネーションを加えることで生まれる微妙なニュアンスは、他言語への翻訳が困難な表現の一つです。
物語で描いたのは、記憶の中に残り続ける音の持つ力です。恋人の癖として描いた「あ?」は、単なる言語習慣ではなく、その人の存在そのものを象徴する記号となっています。私たちは誰かを思い出すとき、しばしば特定の音や声を手がかりにします。それは視覚的記憶よりも深く、より原初的な感覚に訴えかけます。
プルーストが『失われた時を求めて』でマドレーヌの味から記憶が蘇る様を描いたように、音もまた強力な想起の引き金となります。「あ?」という音は、この物語において主人公の青春と別れ、そして今も続く複雑な感情の全てを凝縮した記号です。たった二文字の音が、十年という時間を超えて、人の心に響き続ける。言葉の持つ力は、時に意味を超えて、音そのものに宿るのです。
