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【小説】あ、の一画に宿る無心

墨を摺る音だけが、静寂を満たしていた。

硯の上で、墨が水と混ざり合う。ゆっくりと、円を描くように。急いではいけない。墨も、時間をかけて目覚めるのだ。

私は書道教室の講師をしている。週に三日、地域の公民館で子供たちに字を教える。

でも、今日は違う。

月に一度、禅寺での写経の会に参加している。ここでは、誰も教えない。ただ黙々と、経典を書き写す。

般若心経。二百六十二文字。

何度書いても、完璧には書けない。いつも、どこかで筆が震える。墨が滲む。字が歪む。

それでいい、と住職は言う。

「完璧を目指すのではない。ただ、今この瞬間に集中する。それだけです」

墨が摺れた。濃い、艶のある黒。

筆を持つ。穂先を墨に浸す。余分な墨を落とす。

半紙を前に置く。真っ白な紙。これから文字で埋められる。

深く息を吸う。吐く。

筆を下ろす。

最初の一文字。「摩」。

画数が多い。難しい字だ。

一画目。縦に引く。筆圧を一定に保つ。でも、完璧には保てない。微妙に太さが変わる。

それでいい。

二画目、三画目。筆が紙の上を滑る。

不思議な感覚だった。私が筆を動かしているのか、筆が勝手に動いているのか。境界が曖昧になる。

一文字書き終える。次の字へ。

「訶」「般」「羅」。

リズムが生まれてくる。呼吸と筆の動きが連動する。

吸って、吐いて、書く。吸って、吐いて、書く。

周りの音が消える。隣の人が書く音も、外の車の音も、すべてが遠ざかる。

あるのは、筆と紙と墨だけ。

そして、文字。

「色即是空、空即是色」

この言葉を書きながら、その意味を考える。

形あるものは、実は空である。空であるものが、形となって現れる。

この文字も、そうだ。

墨という物質が、筆という道具を通して、紙という空間に形を作る。でも、その形は永遠ではない。いずれ紙は朽ち、墨は褪せる。

すべては無常だ。

だからこそ、今この瞬間が尊い。

筆を進める。

「受想行識」

途中で、筆が震えた。一瞬、雑念が入った。

あ、と思った瞬間、墨が滲んだ。

失敗だ。

でも、やり直さない。それも、この写経の一部だ。

住職の言葉を思い出す。

「失敗を恐れるな。失敗も、あなたの心の表れです。それを受け入れなさい」

私は続けた。

滲んだ文字の隣に、次の字を書く。「亦復如是」。

不思議なことに、滲んだ字が味になっている気がした。完璧な字ばかりだと、冷たい。でも、失敗があると、人間味が出る。

書き進めるうちに、何かが変わってきた。

最初は緊張していた肩の力が抜ける。呼吸が深くなる。筆を持つ手が、自然に動く。

これが、無心というものだろうか。

考えずに書く。でも、適当に書くわけではない。一画一画、心を込める。ただ、結果を求めない。

今、この筆を下ろす。それだけに集中する。

「無苦集滅道」

苦しみも、悟りも、すべては空である。

書きながら、その言葉が体に染み込んでくる。

私には、悩みがあった。

教室の生徒が減っている。収入が不安定だ。この先、やっていけるだろうか。

でも、今この瞬間、その不安はない。

筆を持って、字を書いている。ただそれだけで、満たされている。

脳の中で何かが弾けるような感覚があった。快楽物質が溢れ出ているような、不思議な高揚感。

これは何だろう。

酒を飲んだ時の酔いとも違う。運動した後の爽快感とも違う。

もっと深い、もっと静かな歓び。

魂が震えている。

「無智亦無得」

知恵もなく、得るものもない。

その通りだ。私は今、何も得ようとしていない。ただ、書いている。

それなのに、いや、それだからこそ、こんなにも満たされている。

筆が止まらない。次から次へと文字が生まれる。

半紙の上に、黒い文字が並んでいく。

美しいとか、下手だとか、そんな判断はしない。ただ、そこにある。それだけだ。

「菩提薩埵」

終わりが近づいてきた。

もう少しで、この経典が完成する。

でも、終わってほしくない気持ちもある。この状態が、心地よい。

「故知般若波羅蜜多」

最後の行。

「是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒」

一文字一文字、丁寧に。

「能除一切苦、真実不虚」

筆を置く。

書き終えた。

般若心経、完成。

でも、完成という言葉は正しくない気がする。これは完成ではない。この瞬間の記録だ。

今日の私が、今日の心で書いた文字。

明日書けば、また違う字になる。

半紙を見つめる。

滲んだ字も、震えた線も、すべてが愛おしい。

これは、私そのものだ。

完璧ではない、でも、嘘のない、今の私。

住職が近づいてきた。

「良い字ですね」

「ありがとうございます。でも、失敗もあります」

「失敗なんてありません。すべてが、あなたの写経です」

住職は微笑んだ。

「書は心画なり、と言います。字は心を映す。あなたの心は、今、とても静かですね」

本当だ。

さっきまであった不安が、消えている。

いや、消えたわけではない。ただ、気にならなくなった。

不安があってもいい。悩みがあってもいい。

それも含めて、私なのだから。

写経を巻いて、袋に入れる。

家に持ち帰って、仏壇に供える。それが習わしだ。

でも、本当は、この写経は私のためではない。

書く行為そのものが、供養なのだ。

一文字一文字に祈りを込める。亡くなった人のため、生きている人のため、そして自分のため。

すべてが一つになる。

それが、写経だった。

帰り道、空を見上げた。

青い空に、白い雲が流れている。

雲は形を変えながら、ゆっくりと移動していく。

生まれて、変化して、消えていく。

それは文字と同じだ。いや、人生と同じだ。

すべては流れている。止まることなく、終わることなく。

私もその流れの中にいる。

それでいい。

明日も、私は筆を持つ。

子供たちに字を教え、週末には写経をする。

同じことの繰り返し。でも、毎回違う。

それが、私の禅だ。

筆の中に、墨の中に、文字の中に。

すべてが、そこにある。

目次

【執筆後記】『あ』の音と表現について

今回選んだのは「あ、と思った瞬間」という表現でした。写経の最中、筆が震えて墨が滲む場面です。この「あ、」という短い音には、失敗への気づきと、それを受け入れる心の動きが同時に含まれています。

書道において、一度筆を下ろしたら、やり直しはききません。絵画のように修正することもできません。その一瞬の判断、その一瞬の筆圧が、そのまま作品になります。だからこそ、書道は禅と深く結びついているのでしょう。

「あ、」の後に続くのは、諦めでも後悔でもなく、受容です。失敗したと気づいた瞬間、それを受け入れて次に進む。この潔さこそが、禅の心だと思います。

物語には、脳内物質が強く出るような高揚感を織り込みました。禅は静かなイメージがありますが、実は深い集中状態に入った時、人間の脳は強い快感を感じます。それは瞑想ランナーズハイとも呼ばれる状態です。無心になった時の陶酔感を、書道という行為を通して表現しました。

「あ」という音は、書道で最初に習う文字でもあります。ひらがなの「あ」、カタカナの「ア」、漢字の「亜」。すべての始まりの音。その音が、失敗の瞬間に出るというのは、ある意味で必然だったかもしれません。失敗は終わりではなく、新しい始まりだからです。一画の滲みが、作品に深みを与える。そんな逆説を、この一音に込めました。

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