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【小説】あるがままの庭、あるがままの心

庭師になって十年目の春だった。

私は禅寺の庭を任されることになった。京都の古刹、五百年の歴史を持つ枯山水の庭だ。

初めてその庭を見た時、息を呑んだ。

白砂に描かれた波紋。苔むした岩。一本の松。それだけなのに、そこには海があり、山があり、宇宙があった。

「この庭を、あなたに託します」

老僧がそう言った。

「でも、何もしなくていい」

私は戸惑った。庭師の仕事は、庭を手入れすることではないのか。

「この庭は、もう完成しています。あなたの仕事は、その完成を守ること。つまり、余計なことをしないことです」

禅問答のようだ。でも、老僧は真剣だった。

「毎朝、砂を掻きなさい。落ち葉を拾いなさい。苔の様子を見なさい。それだけです」

それだけ、という言葉が重かった。

翌朝から、私の仕事が始まった。

夜明け前に庭に入る。まだ薄暗い。空気が冷たい。

熊手を持って、砂を掻く。

一筋、また一筋。波紋を描いていく。

昨日の波紋を消して、新しい波紋を刻む。でも、パターンは同じだ。何百年も、同じ波紋が描かれてきた。

最初は退屈だった。毎日同じ作業。創造性もない。ただ、前任者の真似をするだけ。

でも、続けていくうちに、変化に気づくようになった。

砂の状態は毎日違う。昨夜雨が降れば湿っている。風が強ければ波紋が乱れている。

落ち葉の数も違う。春は少なく、秋は多い。でも、春でも風の強い日は多い。

苔の色も変わる。朝日を浴びて緑に輝く時もあれば、曇りの日は沈んだ色になる。

同じ庭なのに、毎日違う表情を見せる。

ある日、松の枝が伸びているのに気づいた。

剪定すべきだろうか。でも、老僧は「何もするな」と言った。

迷った末、老僧に相談した。

「どう思いますか」

老僧は庭を見た。長い沈黙の後、言った。

「その枝は、切るべきですか」

「はい、庭のバランスを崩しています」

「では、切りなさい」

「でも、余計なことをするなと」

「余計なことと、必要なことの違いは何ですか」

私は答えられなかった。

「庭は生きています。松も、苔も、砂でさえ生きている。生きているものは変化する。その変化に寄り添うのが、庭師の仕事です」

老僧は続けた。

「何もするなというのは、自分の欲望で庭を変えるなという意味です。庭が求めていることをする。それは、何もしないこととは違う」

私は枝を切った。

鋏を入れる瞬間、松と対話している感覚があった。「ここを切ってもいいか」と問いかけると、松が「いいよ」と答えてくれる気がした。

切った後の松は、すっきりとして見えた。風通しも良くなった。

これで良かったのだ。

夏が来た。

苔が生き生きとしている。緑が濃い。雨の日は特に美しい。水滴が苔の上で光る。

でも、一部の苔が枯れ始めていた。

日当たりが強すぎるのだろうか。水が足りないのだろうか。

毎日観察する。苔に触れてみる。土の湿り気を確かめる。

原因が分かった。この場所は、午後の西日が強すぎる。

簾を張った。苔を守るために。

数日後、苔は回復してきた。

老僧が言った。

「良い判断でしたね」

「ありがとうございます」

「でも、来年はどうしますか」

私は考えた。来年も簾を張るのか。それとも、もっと根本的な解決策があるのか。

「苔は、自分で環境に適応します。人間が過保護にすると、弱くなる。来年は、簾を外してみなさい」

そういうものなのか。

植物には、自分で生きる力がある。人間ができることは、その力を信じて見守ること。

秋になった。

落ち葉の季節だ。毎朝、大量の落ち葉を拾う。

でも、すべてを拾うわけではない。

岩の上に一枚、砂の上に二枚、そんな風に、少しだけ残す。

それが、この庭の美学だと教わった。

完璧に掃除された庭は、不自然だ。自然の営みを完全に排除することはできない。むしろ、その営みを取り入れる。

落ち葉も、庭の一部なのだ。

ある朝、庭を掻いていると、小鳥がやってきた。

砂の上を歩いて、虫を探している。

私は手を止めて、じっと見ていた。

小鳥は私を恐れていない。庭の住人として、当然のようにそこにいる。

あっ、と思った。

この庭は、私のものじゃない。小鳥のものでもない。誰のものでもない。

ただ、ここにある。それだけだ。

私は庭を「管理」していると思っていた。でも、違う。私もこの庭の一部なのだ。

松も、苔も、砂も、小鳥も、私も。すべてが一つの生態系の中にいる。

その理解が、ふと降りてきた。

老僧が通りかかった。

「何か気づきましたか」

「はい、この庭は…」

言葉にできなかった。でも、老僧は微笑んだ。

「言葉にしなくていい。感じたことが大切です」

冬になった。

雪が降った。庭が白く染まる。

波紋も、岩も、松も、すべてが雪に覆われる。

庭の形が消える。

でも、美しい。

雪の庭には、雪の庭の完成がある。

春夏秋冬、それぞれの季節に、それぞれの完成がある。

完成とは、固定されたものではない。常に変化し、常に完成している。

それが、この庭の教えだった。

老僧が言っていた。

「禅とは、あるがままを見ることです」

庭を通して、私はそれを学んだ。

松はあるがままに伸び、苔はあるがままに生え、砂はあるがままに風に吹かれる。

私もあるがままに、庭と共にいる。

何も足さない。何も引かない。

ただ、あるがままに。

十年目の春、私は初めて、この庭の本当の姿を見た気がする。

いや、見たのではない。

庭と一つになった。

それが、禅だった。

毎朝、私は庭に入る。

熊手を持って、砂を掻く。

一筋、また一筋。

この波紋は、私が描いているのではない。

庭が、私を通して、自分を描いているのだ。

私はただ、その手となり、目となり、心となる。

それで十分だった。

庭は今日も、静かにそこにある。

五百年前も、今も、きっと五百年後も。

変わらずに、変わり続ける。

それが、枯山水の庭。

それが、禅の心。

私は今日も、庭を掃く。

あるがままに、ただあるがままに。

目次

【執筆後記】『あ』の音と表現について

今回の「あ」は「あっ」という短い驚きの音でした。主人公が庭を眺めていて、突然悟りのようなものを得る瞬間です。長い説明も、大げさな感動もなく、ただ「あっ」という一音で、すべてが変わる。

禅における悟りは、しばしば突然訪れると言われます。長年の修行の末に、ふとした瞬間に訪れる気づき。それは雷に打たれるような衝撃ではなく、むしろ静かな、当たり前のことに気づく感覚です。「ああ、そうだったのか」ではなく、「あっ、これか」という感じ。

この物語には、未来への期待という感情を込めました。ただし、それは願望としての期待ではありません。庭が自然に変化していくこと、季節が巡ること、その流れを信じて見守る姿勢としての期待です。何かを強く求めるのではなく、自然の流れに身を任せる。その中に、静かな期待がある。

「あっ」という音には、瞬間性があります。長く伸ばす「ああ」や「あぁ」と違い、「あっ」は一瞬で終わります。でも、その一瞬に、すべてが凝縮されています。禅の悟りも同じかもしれません。何年もかけて準備したものが、一瞬で開花する。その一瞬を、この短い音で表現しました。言葉の長さと、その意味の深さは、必ずしも比例しない。それもまた、禅の教えなのかもしれません。

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