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【小説】問答と空、あるいは手放すこと

師匠に初めて会ったのは、六月の雨の日だった。

私は陶芸家を目指していた。三十二歳。独学で五年、やっと作品と呼べるものが作れるようになってきた頃だ。でも、何かが足りない。技術ではない。もっと根本的な、何か。

友人が紹介してくれた。「変わった陶芸家がいる。禅寺の住職でもあるけど、すごい器を作る人だよ」

その人の工房は、寺の敷地内にあった。古い木造の建物。引き戸を開けると、土の匂いがした。

「いらっしゃい」

声がして、奥から男性が出てきた。五十代半ばくらいだろうか。作務衣を着て、手に土がついている。

「見学させていただきたいんですが」

「どうぞ。でも、見るだけじゃつまらないでしょう。一緒に作りましょうか」

そう言って、師匠は私にろくろの前に座るよう促した。

土を渡される。冷たくて、重い。

「何を作りたいですか」

「茶碗を」

「なぜ」

「え?」

「なぜ、茶碗なのですか」

私は言葉に詰まった。なぜと聞かれても、茶碗を作りたいから、としか答えられない。

「分からないなら、作らなくていいです」

師匠はそう言って、自分のろくろに向かった。私は呆然と立ち尽くした。

「座って、見ていなさい」

言われた通りに座る。師匠は土をろくろに置き、水をかけ、静かに回し始めた。

手が土に触れる。撫でる。持ち上げる。開く。形が生まれていく。茶碗だ。いや、まだ茶碗ではない。土が、器になろうとしている。

十分ほどで、一つの形ができあがった。

「できましたね」

「はい」

「では、壊しましょう」

師匠は躊躇なく、その茶碗を潰した。元の土の塊に戻す。

私は驚いて声も出なかった。

「なぜ、そんなことを」

「執着するから、苦しいんです。形にこだわるから、自由になれない」

師匠は笑った。

「また来なさい。次は、あなたが壊してみましょう」

それから、私は週に一度、その工房に通うようになった。

師匠は多くを語らない。ただ、問いを投げかけてくる。

「なぜ陶芸をするのですか」

「美しいものを作りたいからです」

「美しいとは何ですか」

「それは…」

答えられない。美しさなんて、主観的なものだ。でも、それでは答えになっていない気がする。

ある日、師匠が言った。

「禅では『不立文字』と言います。言葉では伝えられない。だから、やってみせる。やってみる。その中で、自分で気づく」

「気づくって、何をですか」

「それも、自分で気づくものです」

禅問答のようだ。いや、これが禅問答なのだろう。

夏が来た。工房は暑かった。汗をかきながら、ろくろを回す。

今日は茶碗を作っていいと言われた。三ヶ月ぶりだ。

土に触れる。冷たい。ろくろが回る。手が土を撫でる。

形が生まれてくる。薄く、滑らかに。縁を作る。高台を削る。

できた。

我ながら、良い出来だと思った。バランスが取れている。手に馴染む重さ。

「できました」

師匠が見に来た。手に取って、じっと見つめる。

「いいですね」

ああ。

初めて褒められた。嬉しかった。

「では、壊しなさい」

心臓が止まるかと思った。

「え…でも…」

「壊せないなら、それまでです」

師匠の目は厳しかった。

私は茶碗を手に取った。震える。これは私が作った。時間をかけて、丁寧に。完璧ではないかもしれないけれど、私の全部を込めた。

壊すなんて、できない。

でも、壊さなければ、ここで終わる。

私は目を閉じた。深く息を吸う。

そして、茶碗を床に叩きつけた。

音がした。割れる音。

目を開けると、茶碗は粉々になっていた。

涙が出た。悔しくて、悲しくて。

師匠が言った。

「泣いてもいい。でも、分かりましたか」

「何がですか」

「あなたは茶碗を作っていたのではない。自分の執着を形にしていただけです」

言葉が胸に刺さった。

「作品は、完成した瞬間に、あなたから離れます。もう、あなたのものではない。それが怖いから、手放せない。でも、手放さなければ、次が作れない」

師匠は割れた茶碗のかけらを拾った。

「このかけらは、また土に戻ります。そして、新しい器になる。終わりは、始まりでもあるんです」

その日、私は一日中泣いていた。

でも、不思議と心は軽かった。何かが、確かに変わった。

次の週、私はまた茶碗を作った。今度は、壊すつもりで作った。

だから、自由だった。失敗を恐れない。完璧を求めない。ただ、土と対話する。

できあがった茶碗を、師匠に見せた。

「どうですか」

師匠は微笑んだ。

「これは、壊さなくていいでしょう」

「なぜですか」

「あなたが、すでに手放しているから」

その言葉の意味が、ようやく分かった。

執着を手放すこと。結果を手放すこと。自分自身を手放すこと。

それが、禅だった。

そして、それが、芸術だった。

秋になった。私の茶碗は、少しずつ変わってきた。形は相変わらず不完全だ。でも、何かが違う。生きている感じがする。

「陶芸は禅です」と師匠が言った。「土をこねるのも、ろくろを回すのも、すべて修行。そして、修行に終わりはない」

「終わりがないなら、どこを目指せばいいんですか」

「目指さなくていい。ただ、今日の土に向き合う。それだけです」

シンプルだった。でも、それが一番難しい。

今日も、私は工房にいる。ろくろの前に座り、土に触れる。

何を作るか、決めていない。

土が教えてくれる。手が教えてくれる。

私はただ、それに従うだけ。

これでいい。

これが、私の禅だ。

目次

【執筆後記】『あ』の音と表現について

今回の「あ」は、「ああ」という感嘆でした。師匠に初めて褒められた瞬間、主人公が思わず漏らす声です。でも、この「ああ」の後には、すぐに「壊しなさい」という言葉が続きます。喜びの頂点から、絶望への転落。その落差を、短い一音が象徴しています。

禅の教えの中で、最も難しいのは「手放すこと」だと私は考えます。自分が作ったもの、努力の結晶、それを壊すことは、自分の一部を失うような恐怖を伴います。でも、手放さなければ、新しいものは生まれない。執着こそが苦しみの源だという仏教の根本思想が、ここに現れています。

今回の物語には「勇気」という感情を込めました。茶碗を壊す勇気。完璧を手放す勇気。自分を信じる勇気。禅は静かなイメージがありますが、実は激しい勇気を必要とする修行でもあります。

「ああ」という音には、喜びと同時に、その後に訪れる試練の予感が含まれています。人生の転機は、いつも小さな喜びの瞬間から始まるのかもしれません。その一瞬を捉えるために、この原初的な音を選びました。前回とは異なり、今回の「あ」は喜びの音です。でも、それが次の苦しみへの入り口になる。禅とは、そういう逆説に満ちた世界なのだと思います。

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