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【小説】ああ無情、されど一椀の味噌汁

典座になって半年が経った。

典座とは、禅寺で食事を作る役目のことだ。単なる料理人ではない。修行僧たちの命を預かる、重要な役割だと教わった。

朝は三時に起きる。誰よりも早く厨房に立つ。

今朝の献立は、玄米粥、味噌汁、沢庵、梅干し。毎日同じだ。でも、毎日違う。

米を研ぐ。水が白く濁る。もう一度、また一度。透明になるまで、丁寧に。

鍋に水を張り、米を入れる。火にかける。弱火で、ゆっくりと。

その間に、味噌汁の準備をする。

昆布を水に浸しておいた。昨夜からだ。出汁は時間をかけて取る。急いではいけない。

鍋に昆布を入れたまま、火にかける。沸騰する直前に昆布を取り出す。このタイミングが難しい。早すぎても、遅すぎてもいけない。

煮干しを入れる。五分ほど煮る。アクを取る。丁寧に、静かに。

出汁ができた。この透明な液体に、すべてが込められている。海の味、時間の味。

豆腐を切る。一丁を十六等分。均等に、美しく。包丁の音だけが厨房に響く。

ネギを刻む。細く、細く。一本一本が同じ太さになるように。

出汁が煮立つ。豆腐を入れる。ネギを入れる。味噌を溶く。

味噌は自家製だ。去年の秋に仕込んだもの。時間が味を作る。

味見をする。

塩加減、温度、香り。すべてを確かめる。

良い。今朝の味噌汁は、良い。

粥も炊けた。蓋を開けると、湯気が立ち上る。米の甘い香り。

配膳の時間だ。

僧たちが食堂に集まってくる。無言で座る。合掌する。

私は一人一人の前に、粥を盛る。味噌汁を注ぐ。沢庵を置く。梅干しを添える。

同じ動作を繰り返す。でも、毎回違う。この人には少し多めに。この人は体調が悪そうだから、粥を柔らかめに。

細かな気配りが、典座の仕事だ。

食事が始まる。

僧たちは黙って食べる。作法に則って、音を立てずに。

私は厨房に戻って、自分の分を食べる。

同じ粥、同じ味噌汁。でも、味わいが違う。

作る者として食べる時、料理は別の顔を見せる。

ああ無情。

朝食が終わると、すぐに昼食の準備が始まる。

今日は精進料理。肉も魚も使わない。野菜だけで、栄養と味を作り出す。

大根、人参、牛蒡、蓮根、椎茸。季節の野菜たち。

皮を剥く。一つ一つ、丁寧に。無駄にしない。剥いた皮も、別の料理に使う。

野菜を切る。大根は輪切り、人参は乱切り、牛蒡はささがき。

それぞれの野菜に、それぞれの切り方がある。理由がある。火の通り方、味の染み込み方、食感。すべてを考えて切る。

師匠がよく言っていた。

「料理は算数じゃない。でも、論理はある。なぜこう切るのか。なぜこの順番で煮るのか。すべてに意味がある」

煮物を作る。鍋に出汁を張り、野菜を入れる。

火加減を見る。強すぎず、弱すぎず。野菜が踊る程度。

調味料を入れる。醤油、みりん、砂糖。少しずつ、味を重ねていく。

一気に入れてはいけない。時間をかけて、野菜に味を含ませる。

蓋をして、弱火で煮る。

その間に、他の料理を作る。胡麻豆腐、白和え、酢の物。

手が休まることはない。でも、慌てることもない。

一つ一つの動作に集中する。今、切っているこの人参だけを見る。今、混ぜているこの胡麻だけを感じる。

これが、禅だと教わった。

特別なことをするのではない。目の前のことに、ただ集中する。それだけ。

昼食の時間。

また、僧たちが集まる。今日は客人もいる。遠方から来た修行僧だ。

配膳をする。煮物、胡麻豆腐、白和え、酢の物、玄米飯、味噌汁。

一つ一つ、丁寧に並べる。美しく、バランス良く。

食事が始まる。

厨房で待っていると、若い僧が皿を下げに来た。

「ごちそうさまでした」

そう言って、頭を下げる。

私も頭を下げる。

「お粗末さまでした」

皿を見ると、きれいに食べてくれている。一粒の米も残っていない。

これが、何よりも嬉しい。

夕方、師匠が厨房に来た。

「今日の煮物、良かったよ」

「ありがとうございます」

「でも、まだ迷いがある」

私は驚いた。どうして分かるのだろう。

「料理は心が出る。あなたは今日、何か悩んでいたでしょう」

図星だった。

実は、この寺を出ようか迷っていた。半年経っても、自分が成長している実感がない。毎日同じことの繰り返し。これでいいのだろうか。

「師匠、私は…」

「言わなくていい。自分で答えを見つけなさい」

師匠はそう言って、去っていった。

夜、一人で厨房に残った。

明日の仕込みをしながら、考える。

米を研ぐ。水が濁る。また研ぐ。透明になる。

この作業を、私は何百回とやってきた。でも、毎回違う。

米の状態も違う。水の温度も違う。自分の手の感触も違う。

同じことの繰り返しなんて、ない。

すべては一期一会だ。

今日の米は、今日しか研げない。今日の味噌汁は、今日しか作れない。

そう思うと、急に愛おしくなった。

この米も、この水も、この包丁も、この鍋も。すべてが、かけがえのない存在だ。

私は笑った。

迷っていたのは、私自身だった。

成長なんて、目に見えるものじゃない。毎日、目の前のことに向き合う。それが積み重なって、いつか形になる。

急ぐ必要はない。

焦る必要もない。

ただ、今日を生きる。今日の料理を作る。

それだけでいい。

翌朝、また三時に起きた。

厨房に立つ。米を研ぐ。

水が透明になっていく様子を、じっと見つめる。

美しい。

こんなにも美しいものを、私は毎日見ていたのか。

今日の味噌汁は、昨日よりも美味しくできた気がする。

いや、気がするじゃない。確かに、美味しい。

迷いがなくなると、味も変わる。

師匠が言っていた通りだ。

配膳の時、僧たちの顔を見た。

みんな、穏やかな表情で食べている。

私の作った料理が、この人たちの命になる。

それは、なんと素晴らしいことだろう。

典座という仕事は、地味だ。

でも、これほど尊い仕事はない。

私は、ここにいる。

この厨房で、毎日料理を作る。

それが、私の禅だ。

目次

【執筆後記】『あ』の音と表現について

今回選んだのは「ああ無情」という表現でした。ビクトル・ユゴーの名作のタイトルを思わせる言葉ですが、ここでは文字通り「無情」の意味を込めています。

禅寺の料理は、毎日同じメニューの繰り返しです。変化のない日常。華やかさもなければ、称賛もない。ただ淡々と、朝昼晩、同じ作業を続ける。それを「ああ無情」と嘆く気持ちは、誰にでもあるでしょう。

しかし、この「ああ」には二重の意味があります。表面的には嘆きですが、深層では受容でもあります。無情であることを受け入れる。変化のない日常こそが、実は最も豊かな修行の場だと気づく。その転換点を、この一言で表現しました。

物語には満足という感情を織り込みました。派手な満足ではなく、静かな満足です。皿がきれいに空になっている。それだけで嬉しい。そんな小さな満足の積み重ねが、人生を豊かにするのだと思います。

禅の典座教訓という古典には、料理を作ることの尊さが説かれています。食材一つ一つに命があり、その命をいただいて人の命にする。それは単なる調理ではなく、命のリレーなのです。その深い意味を、「ああ無情」という逆説的な言葉で包みました。無情であるからこそ、有情になる。禅とは、そういう逆説の世界なのかもしれません。

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