
終電を逃した。スマホの画面には午前零時十五分の文字が光っている。駅のベンチに座って、どうしようかと考えていた。タクシーを呼ぶには少し遠い。かといって、ここで夜明かしするのも現実的ではない。
ふと、ベンチの下から小さな鳴き声が聞こえた。見ると、濡れた三毛猫がこちらを見上げていた。さっきまで降っていた雨で、毛がぺったりと体に張り付いている。まだ子猫のようで、不安そうに鳴いている。
私はカバンからハンカチを取り出して、猫の体を優しく拭いてやった。猫は最初警戒していたけれど、やがて身を任せるように大人しくなった。こんな夜更けに、この猫はどこから来たのだろう。
駅員さんに聞いてみたけれど、野良猫だろうとのこと。保護施設の連絡先を教えてもらったが、深夜では誰も出ない。仕方なく、私は猫を抱えて歩き始めた。近くのコンビニで猫用のミルクを買って、駅前の公園のベンチで飲ませてやった。
猫は必死にミルクを飲んだ。小さな舌が容器の縁を舐める音が、静かな夜に響く。飲み終わると、猫は私の膝の上で丸くなった。その温もりが、妙に心地よかった。
最近、仕事がうまくいっていなかった。新しいプロジェクトを任されたのはいいけれど、思うような成果が出せずにいた。今日も遅くまで残業して、結局何も進まないまま会社を出た。そして終電を逃した。
あっ、と声が出た。
猫が私の手を前足で軽く押さえていた。まるで「大丈夫だよ」と言っているみたいに。その仕草に、思わず涙が溢れそうになった。こんな小さな生き物が、私を慰めようとしてくれている。
膝の上で眠る猫を見ていると、不思議な安心感が広がってきた。確かに仕事はうまくいっていない。でも、こうして偶然出会った命を守ることはできた。それだけで、今日一日に意味があった気がした。
夜が明ける頃、私はタクシーを呼んで家に帰った。猫も一緒に連れて帰った。部屋に着くと、猫は興味津々に部屋の中を探検し始めた。カーテンに爪を立てたり、本棚の隙間に入り込んだり、その様子を見ているだけで疲れが消えていくようだった。
翌朝、獣医さんに連れて行くと、健康状態は良好だと言われた。まだ生後三ヶ月くらいだろうとのこと。マイクロチップは入っていなかったので、おそらく捨てられたか迷い猫だろうという診断だった。
「飼いますか」と獣医さんに聞かれて、私は少し考えた。一人暮らしで猫を飼うのは大変だろう。でも、あの夜のことを思い出すと、この子を手放す選択肢は最初からなかった気がした。
会社に電話して有給を取った。猫用品を買い揃えるために、ペットショップを何軒も回った。トイレ、餌入れ、爪とぎ、おもちゃ。必要なものを選びながら、自分が少しずつ責任という名の温かさに包まれていくのを感じた。
名前は「あめ」にした。雨の夜に出会ったから。それに、三毛猫の毛色が飴色に見えたから。あめは新しい家にすぐ慣れて、私の布団で一緒に眠るようになった。
月曜日、会社に行くと上司に呼ばれた。プロジェクトの方向性を見直そうという提案だった。私の案がすべて間違っていたわけではなく、アプローチを変えればもっと良くなるという話だった。その言葉に、肩の力が抜けた。
帰り道、スーパーであめの好きな缶詰を買った。玄関のドアを開けると、あめが待っていた。「ただいま」と声をかけると、あめは甘えた声で鳴いた。
その夜、あめを抱きながら考えた。あの雨の夜、終電を逃したことは不運だったかもしれない。でも、だからこそあめと出会えた。人生には予期せぬ出来事が起こる。それが不幸に見えても、実は新しい幸せへの入り口かもしれない。
窓の外を見ると、また雨が降り始めていた。でも今は、この雨も悪くないと思えた。あめが私の膝の上で眠っている。その寝息を聞きながら、私も静かに目を閉じた。明日はきっと、もっといい日になる。
【執筆後記】『あ』の音と表現について
この小説で使用した「あっ」という感嘆は、主人公が猫に前足で手を押さえられた瞬間に配置しました。この短く鋭い「あっ」は、驚きと発見が混ざった音です。言語学的に見ると、促音「っ」が加わることで、感情の突発性と緊迫感が強調されます。単なる「あ」では表現できない、心の動きが一瞬で変化する様子を音として定着させています。
仕事の失敗で心が疲弊していた主人公が、偶然出会った猫との交流を通じて、少しずつ心の平穏を取り戻していく過程を描きました。「あっ」という音は、その転換点を示すシグナルとして機能しています。
「あっ」という音が持つ受容性。主人公は猫の仕草に対して思わず声を発しますが、それは拒絶ではなく、むしろ相手の優しさを受け入れる際の心の開放を示しています。「あ」という母音は口を開く動作を伴うため、文字通り心を開く瞬間の音として最適なのです。
また、猫の名前を「あめ」としたことにも意味があります。「あ」で始まる名前は呼びやすく、親しみやすい響きを持ちます。雨という自然現象と、飴という甘い記憶が重なり合い、出会いの偶然性と必然性を象徴する名前になりました。「あ」という音が、物語の中で人と生き物を結びつける架け橋の役割を果たしているのです。
