
祖父の遺品整理をしていたら、古い懐中時計が出てきた。
金色の蓋がついた、手のひらに収まるくらいの大きさの時計だった。表面には細かい装飾が施されていて、長年使い込まれた跡がある。蓋を開けると、文字盤は意外なほどきれいで、針は今も静かに時を刻んでいた。
祖父がこの時計を持っていたことを、私は知らなかった。祖父は質素な暮らしをしていて、派手なものを身につけることはなかった。それなのに、なぜこんな立派な時計を持っていたのだろう。
時計の裏蓋を開けてみると、小さな文字で何か刻印されていた。虫眼鏡を持ってきて読んでみる。
「時は流れても、思いは永遠に」
誰がこの言葉を刻んだのだろう。そして、祖父にとってこの時計はどんな意味を持っていたのだろう。私は時計を握りしめて、祖父の書斎を見回した。
本棚には古い本が並んでいる。机の引き出しを開けると、手帳やメモ、そして一通の手紙が入っていた。封筒は黄ばんでいて、相当古いものらしい。宛名は祖父の名前だが、差出人の名前は見慣れないものだった。
手紙を開いていいものか迷ったが、祖父はもういない。知りたいという気持ちが勝って、私は封を切った。
便箋には、女性の字で長い文章が綴られていた。戦争が終わった直後の日付がある。読み進めていくうちに、これが祖父の初恋の人からの手紙だとわかった。
二人は若い頃、同じ町で暮らしていたらしい。でも、戦争で離ればなれになり、再会することはなかった。手紙には、祖父への想いと、それでも別々の人生を歩むことを決めた理由が書かれていた。そして最後に、こう記されていた。
「あなたにあげた時計を、大切にしてください。いつかまた会える日まで」
あぁ。
そうだったのか。この時計は、祖父が生涯大切にしていたものだったのだ。祖父は祖母と結婚して、幸せな家庭を築いた。でも、心のどこかに初恋の人への想いを持ち続けていたのかもしれない。
私は時計の音に耳を傾けた。規則正しい音が、静かな部屋に響いている。この音を、祖父は何度も聞いていたのだろう。夜、一人で書斎にいるとき。昔を思い出しながら、この時計を手に取っていたのかもしれない。
翌日、私は図書館に行って、戦後の地方新聞を調べてみた。手紙の差出人の名前で検索すると、小さな記事が見つかった。その女性は、戦後すぐに別の町で教師として働き始めたらしい。結婚したかどうか、その後どうなったかは、記録に残っていなかった。
でも、一つだけわかったことがある。彼女は生涯、教育に情熱を注いだ人だったということ。多くの子どもたちに慕われ、地域に貢献した人だった。きっと、充実した人生を送ったのだろう。
家に帰って、また時計を手に取った。この時計には、二つの人生が刻まれている。祖父の人生と、あの女性の人生。二人は一緒になることはなかったけれど、それぞれの道を真摯に歩んだ。そして、この時計だけが、二人の想いを永遠に繋いでいる。
私は時計を大切に箱にしまった。これからも、この時計を守っていこうと思った。祖父が守り続けたように。そして、いつか自分の子どもにも、この時計の物語を伝えよう。
夕暮れ時、窓の外を見ると、夏の空がオレンジ色に染まっていた。祖父が見ていた空と同じ色だろうか。時代は変わっても、空の色は変わらない。人の想いも、時を超えて受け継がれていく。
その夜、私は祖父の書斎で本を読んだ。時計を机の上に置いて、その音を聞きながら。不思議と、祖父がそばにいるような気がした。時計の音が、まるで祖父の声のように聞こえる。
「大切なものを、大切にしなさい」
祖父はそう言っている気がした。大切なものは、目に見えるものだけではない。人との出会い、別れ、想い。そういった形のないものこそ、人生を豊かにするのだと。
私は時計を撫でた。金色の表面が、柔らかい光を反射している。この時計は、これからも時を刻み続けるだろう。私の人生の中で、そして次の世代の人生の中で。
窓の外では、夏の虫が鳴いていた。祖父もこの音を聞いていたのだろうか。同じ季節、同じ時間、同じ音。時は流れても、繰り返されるものがある。その中に、人の想いが静かに息づいている。
私は本を閉じて、時計を手に取った。耳に当てると、心臓の鼓動のような音が聞こえる。生きている証のような、温かい音。祖父が聞いていた音と同じ音。
明日からまた日常が始まる。でも、この時計があれば、いつでも祖父の想いに触れることができる。そう思うと、心が満たされた。
時計を箱にしまい、部屋の明かりを消した。暗闇の中で、時計の音だけが静かに響いている。永遠に続く時の流れの中で、人の想いは確かに受け継がれていくのだと、私は信じている。
【執筆後記】『あ』の音と表現について
この小説で使用した「あぁ」という感嘆は、主人公が時計に込められた祖父の想いの真実を理解する場面に配置しました。手紙を読み終え、すべてが繋がった瞬間の深い理解と感動を、この一音で表現しています。言語学的に見ると、「あぁ」という伸ばした母音は、複雑な感情が心の中で静かに広がっていく様子を音声化したものです。驚きではなく、納得と共感が混ざり合った感情であり、過去への理解が現在の自分を変容させる転換点を示しています。
主人公は祖父の遺品を通じて、知らなかった過去に触れ、郷愁や懐かしさ、時を超えた想いの尊さを感じ取ります。「あぁ」という音は、過去と現在が交差する瞬間の響きとして機能しており、読者にも同じ感動を追体験させる効果があります。
「あぁ」という音が持つ時間的な広がり。短い「あ」ではなく伸ばすことで、過去から現在へと流れる時間の連続性を表現しています。祖父の青春時代から現在まで、数十年という時の流れが、この一音に凝縮されているのです。また、「ある夏の日」という書き出しも「あ」で始まり、物語全体が記憶と時間の物語であることを暗示しています。
時計という象徴的なアイテムを通じて、時の流れと人の想いの永続性を描きましたが、「あぁ」という音はその核心に触れる瞬間を鮮明に刻印する役割を果たしています。この音なくしては、主人公の内面的な変化は読者に十分に伝わらなかったでしょう。言葉以前の、感情そのものの発露として、「あ」という音は文学における最も純粋な表現手段なのです。
