あ.net と検索しても当サイトに来れます あ.net

【小説】朝の公園で拾ったメモ帳

朝のジョギングコースにしている公園のベンチに、小さなメモ帳が置いてあった。誰かが忘れていったのだろうか。それとも意図的に置いていったのか。周りを見回したが、人影はまばらで、誰のものか見当もつかなかった。

拾い上げてみると、手のひらに収まるくらいの大きさの、茶色い革のカバーがついたメモ帳だった。古びた感じがして、長く使い込まれている様子がうかがえた。中を見てもいいものか迷ったが、持ち主を探すためには確認する必要があると自分に言い聞かせて、最初のページを開いた。

そこには日付と、短い文章が書かれていた。

「2023年4月15日 今日から新しい自分になる」

ページをめくると、毎日の記録が続いていた。どれも一行か二行の短い文章で、日記というよりは決意表明のようなものだった。

「散歩を続ける」「本を一冊読み終えた」「隣の人に挨拶できた」

何気ない日常の出来事が淡々と記録されている。でも、その一行一行から、書き手の真摯な姿勢が伝わってきた。この人は、小さなことを積み重ねながら、自分を変えようとしているのだ。

読み進めていくうちに、不思議な気持ちになった。私自身も最近、何かを変えたいと漠然と思っていた。毎日が同じことの繰り返しで、特に不満があるわけではないけれど、何か物足りない。このメモ帳の持ち主は、そんな日常に小さな変化を起こそうとしているのだろう。

ベンチに座って、メモ帳を読み続けた。記録は一年以上続いていた。途中、何日か空白の日もあったけれど、また再開されている。完璧でなくてもいい、続けることに意味があるのだと、この人は知っているのだろう。

後半になると、記録の内容が少し変わってきた。

「公園で知らない人と話した」「新しいカフェに入ってみた」「昔の友人に連絡した」

行動の範囲が広がっている。最初は散歩を続けることが目標だったのに、いつの間にか新しいことに挑戦するようになっている。変化は急には起こらない。小さな一歩を重ねることで、気づいたら遠くまで来ているものなのだと、このメモ帳が教えてくれている気がした。

最後のページには、昨日の日付が書かれていた。

「公園のベンチにこのメモ帳を置いていく。誰かが読んでくれたらいい。一年前の自分に比べて、今の自分は少しだけ変われた気がする。このメモ帳を読んだ人にも、何か伝わるものがあれば嬉しい」

あぁ、そうか。

この人は、わざとメモ帳を置いていったのだ。自分の記録を誰かに読んでもらうために。そして、その誰かが何かを感じてくれることを願って。

私は静かにメモ帳を閉じた。胸の奥が温かくなった。見知らぬ誰かの一年間の努力を、こうして垣間見ることができた。その人の勇気が、私の中に小さな火を灯した。

家に帰ると、引き出しから新しいノートを取り出した。ずっと使おうと思いながら、何を書けばいいかわからず、真っ白なままだったノート。今日からこれを自分のメモ帳にしよう。

最初のページに日付を書いた。そして、一行だけ文章を添えた。

「今日、公園でメモ帳を拾った。誰かの勇気をもらった。私も変わろう」

何を変えるのか、具体的にはまだわからない。でも、それでいいのだと思った。公園のメモ帳の持ち主も、最初はただ散歩を続けることから始めたのだから。

翌朝、また公園を走った。いつもと同じコースだけれど、景色が少し違って見えた。木々の緑が鮮やかで、鳥の声がはっきりと聞こえる。今まで気づかなかっただけで、こんなにも豊かな朝の空気がそこにあったのだ。

ベンチのところまで来ると、別のメモ帳が置いてあった。表紙の色は青い。開いてみると、最初のページにこう書かれていた。

「このメモ帳を読んでくれた誰かへ。あなたの一歩を応援しています」

思わず笑みがこぼれた。これは、昨日のメモ帳の持ち主が置いていったものかもしれない。それとも、同じように誰かがメモ帳を拾って、その連鎖として新しいメモ帳を置いたのかもしれない。

私はポケットから自分のメモ帳を取り出して、二行目を書き足した。

「公園には優しい人たちがいる。見えない誰かが、誰かを応援している」

帰り道、コンビニに寄って新しいメモ帳を買った。家に帰ったら、何か書いてみよう。そして明日、公園のベンチに置いてこよう。次に誰かがそれを見つけたとき、その人の朝が少しでも明るくなれば嬉しい。

変化は、こんな小さなことから始まるのかもしれない。誰かの勇気が、また誰かに伝わって、それがまた別の誰かを動かしていく。公園のベンチが、そんな優しさの交差点になっている。

窓の外では、春の風が吹いていた。私は新しいメモ帳を開いて、ペンを走らせ始めた。

目次

【執筆後記】『あ』の音と表現について

この小説で使用した「あぁ、そうか」という感嘆は、主人公がメモ帳が意図的に置かれたものだと気づく場面に配置しました。この「あぁ」は、理解と納得が同時に訪れる瞬間を表現しています。言語学的に見ると、「あぁ」という伸ばした音は、思考が一つの結論に到達する過程を音声化したものです。単なる「あ」では瞬間的すぎて、深い理解のプロセスを表現できません。「あぁ」と伸ばすことで、謎が解ける心地よさと、相手の意図を汲み取った温かさが同時に表現されるのです。

見知らぬ人のメモ帳を通じて、主人公が新しい一歩を踏み出す勇気を得る過程を描きました。「あぁ」という音は、他者の行動の意味を理解し、それを自分の行動へと変換する転換点として機能しています。

「あぁ」という音が持つ共感性。主人公はメモ帳の持ち主と直接会っていませんが、「あぁ」という声を発することで、相手の気持ちに寄り添い、その意図を受け入れています。この音は、理解と受容を同時に示す日本語特有の表現であり、心と心が通じ合う瞬間を象徴しています。

また、物語全体が「ある朝の出会い」から始まり、「新しい一歩」へと展開していく構成になっています。「ある」という言葉も「あ」で始まり、偶然の出会いが必然の変化へとつながる過程を暗示しています。「あ」という音は、物語における発見と始まりの両方を担っており、読者に対しても新しい視点を提供する役割を果たしているのです。

朝の公園で拾ったメモ帳

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次