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世界が少しだけ優しくなった気がした朝のこと

駅前のコンビニで、私はよく立ち止まる。
出勤前にホットコーヒーを買うかどうか、毎朝のように迷うからだ。眠気を少しだけごまかしたい日もあれば、カフェインに頼りすぎている自分に少し嫌気がさす日もある。レジ前の列の長さや、財布の中身の小銭の量まで含めて、些細な条件を全部並べては、行くかやめるかを決めている。

その朝も、私はコンビニの前で立ち止まっていた。少し肌寒い季節で、白い息がうっすら見える。いつもより人が多くて、店内のレジ前には学生らしき人や、スーツ姿の人たちが列を作っていた。ガラス越しにその列を眺めながら、今日はやめておこうかな、と半歩だけ後ろに下がる。

そのとき、店の自動ドアが開いて、小さな男の子が泣きながら飛び出してきた。幼稚園くらいだろうか。マスクがずれて、目のあたりまで上がっている。後ろから少し遅れて、お母さんらしき人が「ちょっと待って」と追いかけてくる。

男の子は店の前のスペースで立ち止まり、地面を蹴るようにして、「なんでダメなの」と泣き声を上げた。どうやら、お菓子か何かをねだったけれど、買ってもらえなかったらしい。鼻をすすりながら、ぐしゃぐしゃの声で抗議している。

朝の駅前で、泣き声は意外とよく響く。周りを歩いていた人たちが、ちらちらと視線を向ける。足を止める人は、ほとんどいない。見てはいけないものを見てしまったような、でも完全に無視するのも居心地が悪いような、あの独特の空気が広がる。

私は少し離れた場所から、その様子をぼんやり眺めていた。お母さんは困ったように笑いながら、でも声は少しだけ疲れていて、「今日はこれだけって言ったでしょ」と繰り返している。きっと仕事に行く前なのだろう。エコバッグの中には、夕飯の材料になりそうなものがいくつか見えていた。

ふと、その横を通り過ぎようとしたスーツ姿の男性が立ち止まった。ぱっと見は、よくいる「疲れた会社員」に分類されそうな人。コートの袖口は少しだけ擦り切れていて、ネクタイはきっちり締まっているけれど、どこかくたびれた雰囲気がある。

彼は一瞬だけ男の子の方を見て、それからお母さんの顔を見て、何か迷うように視線を泳がせた。そして、コンビニの中に戻っていった。

私は「逃げたのかな」と思った。面倒ごとに巻き込まれたくないのかもしれない。私だって、たぶんそうする。距離を保つことで自分を守る癖が、いつの間にか当たり前になっている。

けれど少しして、その男性はコンビニのビニール袋を片手に、また外に出てきた。袋は小さくて、中身はひとつだけのようだ。彼は、まだ泣いている男の子から少し距離をとった場所で立ち止まり、お母さんの方を向いた。

「すみません」と、彼はお母さんに声をかけた。
突然話しかけられて、お母さんの肩がびくっと小さく揺れる。

男性は、袋を少し持ち上げて見せながら、「さっき、中で泣いてるの見ちゃって」と、どこか申し訳なさそうに言った。
「もしよかったら、これ、僕からってことにしてもらえませんか」

それは、小さなチョコレート菓子だった。キャラクターの顔がプリントされた、よくある安いパッケージ。特別高級でも、特別おしゃれでもない、ただの「子どもが好きそうなやつ」。

お母さんは困ったように笑って、「そんな、悪いです」と首を振った。
男性は「あ、すみません」と慌てて言いかけて、それから少しだけ黙り込んだ。視線は地面のあたりをさまよい、何かを飲み込むように小さく息を吸う。

「……うちの子も、前はよくこうやって泣いてたんです」と、ぽつりと言った。
「今はもう大きくなって、こういうの一緒に買うこともなくなっちゃって。なんか、思い出しちゃって」

その一言で、空気が変わった。男の子の泣き声はまだ続いているのに、周りの音が少し遠くなる。お母さんは、さっきまでよりも柔らかい表情になって、男性の顔を見つめた。

「そうなんですね」と、少しだけ声がほどける。
「本当に、いいんですか?」

男性は照れたように笑って、「もちろんです」と言った。その笑顔は、さっきまでの疲れた会社員の顔ではなくて、誰かの親の顔だった。

お母さんは男の子の方に向き直り、「ねえ、ほら」と話しかけた。
「お兄さんがね、これ、どうぞって言ってくれてるよ」

男の子はまだ涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、差し出された袋を見つめる。少しだけためらってから、恐る恐る手を伸ばして受け取った。

その瞬間、男性は深く頭を下げて、「じゃあ、失礼します」とだけ言って、人混みに紛れていった。名乗りもしないし、特別な言葉も残さない。ただ、少しだけ軽くなった足取りで駅の方へと向かっていく。

お母さんは袋の中身を確認して、「よかったね」と笑った。さっきまで涙で濡れていた男の子の顔に、ほんの小さな笑顔がかすかに浮かぶ。まだ完全には機嫌が直っていないけれど、泣き声は止まっていた。

その一連の流れを見ていた私は、そこでようやく、自分がコンビニの前で何分も立ち尽くしていたことに気づく。コーヒーを買うかどうかで迷っていたはずなのに、それどころではなくなっていた。

胸のあたりが、じんわりと熱くなる感覚があった。誰も派手なことはしていない。ニュースになるような大事件でもない。ただ、知らない誰かが、知らない誰かの朝を、少しだけやわらかくした。それを、たまたま私は横から眺めていただけだ。

気づくと、私の足は自然にコンビニの中へ向かっていた。コーヒーを買うことにした、というより、その場から立ち去る前に何かをしたくなった、という方が近い。レジに並びながら、さっきの男性の背中を思い出す。

レジで会計を済ませるとき、私はコーヒーに加えて、小さなチョコレート菓子をひとつカゴに入れた。同じパッケージのものはもうなかったから、似たような値段の、別のものを選ぶ。誰かの真似をしたかったわけではない。ただ、私も「自分の朝」を少しだけ変えてみたくなった。

店を出て、コーヒーをひと口飲む。カップのフタから立ちのぼる湯気が、ひんやりした空気の中にゆらゆらと溶けていく。その景色を見ながら、心の中で小さくつぶやいてしまった。

あ、世界って、こんなふうに少しずつ優しくなっていくのかもしれない。

それは、大きな悟りでも真理でもない。ただの一場面に過ぎないのに、胸のどこかにすっと入り込んで、居場所をつくる感覚があった。自分が困っているとき、あの男性のような行動ができるかどうかはわからない。それでも、「そういう人がいる世界」に自分も立っているのだ、という事実だけで、足取りがほんの少し軽くなる。

その日一日、仕事の合間にふと窓の外を見ると、駅前のコンビニの前を思い出した。泣いていた男の子の顔も、お母さんの疲れたような笑顔も、男性の照れた表情も、何度も頭の中に浮かんでくる。そのたびに、机の上の紙コップに伸ばした手が、少しだけやさしい気持ちを取り戻す。

世界がすぐに劇的に変わることは、きっとない。理不尽は残るし、腹が立つことも、悲しくなることも、これからも何度もやってくる。それでも、どこかのコンビニの前で、誰かのささやかな優しさが、また誰かの朝を少しだけ変えている。そう思えるだけで、今日を生きる心の温度が、ほんの少しだけ上がる気がした。

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